2015 . 7 . 31

美容医療の神髄18-歴史的経緯第18話- ”口頭伝承話”その18

私が北里大学医学部を卒業する頃には、美容医療の世界には形成外科系の美容外科と美容整形系の美容外科の二つの団体が厳然と存在し、さらに開業医とチェーン店系の対立の構図がありました。

そんな中で私は、将来美容外科医を継いでいきたいと思いました。でも進路は、まだ決めかねていました。美容外科医院に就職するか、大学の形成外科医局に進むかです。私は学生時代に少しずつ、善くも悪くも形成外科医の姿勢を感じ取り。父も実は反発しながら、その優位性を感じ始めていたようです。

いつどこで、父が北里大学の形成外科医と接触したかは、聴き忘れました。父は二つの学会に所属していましたから、何気なく私の事にも触れていたのでしょう。私が大学4年5年と形成外科と出会う機会を持つ頃には、形成外科の標榜から10年、美容外科の標榜から8年が経っていたのです。父は、二つの学会の前駆体のときから、二つの学会に関与し、標榜にも関わっていましたが、この頃から、美容整形出身の美容外科医達のチェーン店化とビジネス化が隆盛を始めました。だから逆に、非形成外科の美容外科医も、形成外科出身の美容外科もどちらも、一人開業医は苦渋を感じていました。開業医の姿勢としては、「美容外科は一人一人違う患者さんの一人一人違う希望を汲み、人間関係まで作り上げる必要があるので、個人開業医がふさわしい。オートメーションの流れ作業みたいなチェーン店の美容外科は患者のためにならないし満足な結果を得られる訳がない。」これは父が私に説いた考えをまとめた言葉です。

そうして考えていくと、父は私がチェーン店に就職するのを制止したのです。十仁病院はチェーン店と入っても新橋本院が主体だから、美容整形教育にはいいとは考えていたのでしょうが、姿勢が好ましくないと思っていたのです。何故なら既に十仁病院出身の美容外科医が、チェーン店を続々作り始めていたからです。

明確な理由は覚えていないのですが、こうして北里大学形成外科への入局へ進んでいったのです。その方向性が強まったのが、学生時代に学会参加したことでした。昭和59年に北里大学医学部形成外科の塩谷教授が日本形成外科学会を主催した際に、父に誘われて学生なのに学会場に行ったのです。何を見たか内容は覚えていませんが、とにかくそこで、父が私を塩谷教授に引き合わせて、「お世話になるつもりだから、挨拶しておけ。」と言ったのは覚えています。実は父が、形成外科側の人脈を繋ぎ始めたきっかけにもなったと思います。

話しは戻りますが、父は標榜の前にも、すっと前にも、美容整形医や形成外科医との交流が深かったのです。形成外科医の元締めでもある警察病院の大森清一形成外科部長とも懇意にしていたそうで、「森川先生は美容整形医の中で一番真面目だね。」と言われたと、私に自慢していました。美容整形医が昭和40年代には都内だけで30人は開業していたそうですが、父はほとんどの先生と交流を持っていたと自負していました。そのうちの何人かと、勉強会の様な会合を定期的に始めたそうです。十仁病院がその頃研究会を発足した際に合流したのだそうです。形成外科と美容外科の標榜に影から手を貸して、二つの団体が出来てしまった後にも二つの学会に加入しました。

父がJSAPSに私を同行させ、塩谷会長に挨拶した事で、形成外科側に近づいたのです。少なくとも、私が形成外科に入局した後JSAPS側での参画の機会と、JSAS側での参画の割合が50/50に限りなく近づきました。二つの学会の間を行ったり来たりするから、コウモリと称されていました。

形成外科医出身の美容外科開業医は、まだ数えられる程少なかったのですが、非形成外科の十仁側は美容整形開業医が主体となって作った学会です。ところが標榜認可後から、この中にチェーン店を開設して行く者が多くなりました。その後形成外科出身の開業医も増え始めると、父は開業医側をにスタンスを起き、二股でもなんでも、開業医を糾合する動きをしました。それが臨形です。

やっとここまで来ました。私が大学卒業する直前に臨形に参加しました。もう北里大学形成外科に入居くする直前の事です。次回はそこから再開します。